合の双盤念仏

 落合の双盤念仏は落合の念仏ともいわれ、文化文政期に浅草寺(東京都台東区)から伝承された「せんそうりゅう」と伝えています。西光寺の七世住職の祖遠禅明和尚がこれを取り入れたといいます。

落合の双盤念仏

 毎年4月12日、10月12日の薬師堂の祭礼に双盤念仏が奉納されます。もともと薬師堂は3月12日と9月12日が祭礼日でしたが、9月は養蚕の晩秋蚕が盛りで忙しいため、気候の良い4月と10月に変わりました。

 落合の薬師は、小田原の後北条氏に縁があり、天正18年(1590)の小田原攻めの際に滝山城より落ちのびた中山氏により祀られたと伝えられています。薬師如来は眼病平癒に利益があるといわれ、双盤念仏を取り入れるとさらに薬師信仰が盛んになったといいます。薬師堂は『新編武蔵風土記稿』には「薬師堂 西光寺の持」との記述があり、また明治以降は西光寺の境外仏堂となっていました。

 昭和初期に当時70歳位の阿部川岩吉、江原曽之吉を師匠に青年団の有志10人位が念仏を習いました。寒い時期に西光寺の囲炉裏を囲んで口伝えで教わったそうです。「五遍返し」(注)のモウスコト(文句)から練習し、鉦を習得してから希望者が太鼓を習いました。その頃の師匠は鉦も太鼓も見事にこなし、太鼓の曲打ちに工夫を凝らし、「つる巣籠りすごもり」などと呼ばれる秘技も心得ていたといいます。この年代の人達は八王子大善寺や各地のだんに参加し、「あそこの談義では十二枚、あそこでは十六枚、鉦をたてたから大したもんだ」というような言い方で鉦の枚数で行事の大きさを比較したようです。落合の西光寺でも昔談義が行われ、鉦を十枚位並べ、鉦についた人が着物の下に赤色の長襦袢を着込み、片肌脱ぎで威勢をつけて鉦を打ったといます。明治時代のことと考えられます。川寺の大光寺の双盤念仏とは交流がありましたが、川寺は「おくやまりゅう」といい、落合では流派が違うと認識していたようです。

 アジア太平洋戦争中の金属供出により他の仏具とともに鉦が供出され中断しました。戦後は川寺の大光寺から鉦を借り念仏をしたこともありましたが、永らく行われない状況が続きました。昭和51年頃に西光寺住職の加藤悟堂、奕雄父子が念仏の復興を計り、檀徒総代や古老と相談した結果、清水芳太郎、清水紋治、大久保邦治、大久保音三等の経験者を師匠にして練習が開始されました。落合の有志、小島徳夫、清水好夫等約20人が習いました。鉦がないため、各々が家から鍋の蓋など、それらしい音の出るものを持ち寄り、記憶をたどりながら、西光寺の本堂で練習しました。太鼓の伝承者がいなかったため、川寺のもろおかひょうさくに太鼓の打ち方の指導をうけ、復活が完成しました。昭和52年(1977)には鉦四枚が鋳造され、翌年の3月祭礼から双盤念仏の奉納が再開されたのです。昭和60年(1985)には双盤念仏保存会が発足。昭和62年度に飯能市指定無形民俗文化財に、平成21年度には埼玉県選択無形民俗文化財に指定されました。

落合の双盤念仏の様子

 薬師堂の祭礼は西光寺の檀徒と念仏保存会で催されます。朝の準備に始まり、午後1時30分からの広渡寺、西光寺住職による法要に続いて午後2時30分頃から双盤念仏の奉納となります。堂内の本尊に向かって中央に大太鼓が据えられ、その後方に左側から一番鉦、二番鉦、三番鉦、四番鉦が配置されます。太鼓1名、鉦4名が一組の構成です。鉦を4枚使うことからふくそうばんともいわれています。双盤念仏全体は太鼓が主導します。太鼓のバチは一尺九寸(約63㎝)の長さですが、双盤念仏で使用されるものとしては一番長いものです。打ち手は下から三分の一あたりを握り、時にバチを振り回すように打つのが特徴的です。鉦はT字形の撞木で打ちます。一番鉦はおやがねと呼ばれ、鉦の中で一番の経験者が座り、鉦を主導します。四番鉦はしりがねともいいます。薬師堂の祭礼とは別に西光寺の本堂では8月14日の盆の施餓鬼と大晦日の夜に双盤念仏が奉納されますが、これは復活後にはじめられた行事です。

 落合の念仏は一通りが約25分かかります。これを本流しといいます。また片流しといい、太鼓が四遍返しを最後の一下りだけ唱え、鉦の五遍返しに入っていくやり方もあります。

 その本流しの主要な部分「四遍返し」から「玉入れ」までを念仏の流れを記します。

 太鼓が「四遍返し」を、一番鉦から四番鉦が、「五遍返し」を、一人ずつ唄うように唱えます。「四遍返し」は特に静かで、合間に入る鉦太鼓の音も小さく、「五遍返し」の方が節に高低があります。

 「掛け念仏」は太鼓と鉦で念仏を掛け合いながら進めていきます。鉦太鼓は「起こし」と「寝かし」つまり音を響かせる打ち方と響かせない打ち方を交互に繰り返し、アクセントをつけていきます。「三つ鉦」では一つの念仏のフレーズに鉦と太鼓が3回入りますが、「四つ鉦」になると4回になり、テンポが速く賑やかになっていきます。掛け念仏が終わると、鉦と太鼓で大きな音から小さな音へと素早く打って間を詰める「せめ込み」です。一瞬大音量に驚きますが、すぐに鉦は一定の速さで小さめに打ちながら4人で調子を合わせていきます。この打ち方を「キザミ」と言います。太鼓は鉦のキザミの合間に自由にバチを入れて雰囲気を盛り上げます

 次に「玉入れ」ですが「しちさんの玉入れ」といわれるように、一番鉦は七、二番鉦は五、三番鉦は三の玉を入れます。キザミの合間に玉は際立つように強く鉦を打ちます。太鼓は頃合いをみて一番鉦に「アーハイ ナンマイダーハイ」と声をかけます。一番鉦は「アイダーイ アイダーツナンマイダーハイ」とそれを受け、すぐに七つ玉を打ちます。七の玉入れがおわると同様の言葉を今度は一番鉦から太鼓に送り、太鼓が受けます。以下二番鉦、三番鉦と玉入れが続きます。玉入れにかかると念仏は最高潮に達し、強烈な鉦の音色と太鼓の曲打ちは、見る者を圧倒し、無我の境地にいざないます。

落合の双盤念仏の様子

双盤念仏の順序は次の通りです。

1十三鉦
太鼓と鉦でおよそ13回打っていく。最後に大きく3回打つ。

2四遍返し
太鼓が唱える 太鼓鉦の打ち方は「寝かし」

3五遍返し
一番鉦から四番鉦までが順に唱える 太鼓鉦の打ち方は「起こし」

4掛け念仏
太鼓と鉦が交互に唱える。「起こし」と「寝かし」を繰り返しながら三つ鉦から四つ鉦に入っていく。

5せめ込み
太鼓と鉦で間合いを詰める

6玉入れ
鉦がキザミとなり、一番鉦から三番鉦が順に七五三の玉入れを行う。太鼓は玉に即座に応じて打っていく。合間に曲打ちを入れる。

7大山越し
太鼓の「ドドンドド ドンドド」に合わせて鉦を打ち次第に早くなり、またゆっくりとなり終わる。

8竜頭(たつがしら)
太鼓がバチを左右にふりながら打ち、「アーハーハイ」と声をかけ鉦が「アナイアナイアナイダーツナイダイ」と受け、鉦が強弱をつけて打っていく。

9小山越し
太鼓と鉦で大から小へ素早く間合いを詰めて打つ。

10天地の玉
太鼓と鉦が一緒に1回打つ。

11十三鉦
始めの十三鉦と同様だが、太鼓の打ち方が少し異なる。


落合では、五遍返し、四遍返しの「へん」の表記が、編、偏、辺とまちまちであるので、ここではその意味から類推し、「遍」で統一して記載した。

資料

※鉦の銘文
一番鉦 薬師如来宝前 願主加藤奕雄 為真光妙照信女 昭和五十二年十月吉日 西光寺什物(直径36㎝)
二番鉦 薬師如来宝前 願主檀信徒有志一同 為家内安全 昭和五十二年十月吉日 西光寺什物(直径36㎝)
三番鉦 薬師如来宝前 願主加藤悟堂 為喜寿報恩 昭和五十二年十月吉日 西光寺什物(直径36㎝)
四番鉦 薬師如来宝前 願主大久保音三 為先祖代々菩提 昭和五十二年十月吉日 西光寺什物(直径36㎝)
鉦の枠台の銘文(入間市野田 長徳寺から寄進されたもの)「慈眼山長徳禅寺十二世代什具」「瑠璃山什物吉祥院良章代」
※太鼓の銘文(太鼓胴内側の銘文)
「江戸浅草新丁 御太鼓師 福嶋屋金左衛門 文化元年六月吉日」
「昭和四十八年九月吉日 高崎市若松町 両面張替 細工人 永井虎夫」
 (太鼓胴外側の銘文)
「昭和四十八年九月吉日 両面張替寄進 生命共済推進委員一同
修復 平成二十五年八月十四日 西光寺 西光寺浅草流双盤念仏保存会 二十七世秀明代 飯能市落合 西光寺」