能市内とその周辺の双盤念仏の事例


川寺の双盤念仏

 双盤念仏は、大光寺の境内にある虚空蔵堂の4月13日、10月13日の春・秋の祭礼、御開帳の際に行われてきました。現在は諸事情により中断しています

川寺の双盤念仏

 双盤念仏は川寺の中でも上川寺の人々により伝承されてきました。古くは36戸ほどの村で、虚空蔵様の春・秋の縁日は、村の大きな祭礼でした。この日には虚空蔵堂で護摩が焚かれます。昔は祭礼の合図に朝早く花火が上がり、双盤念仏も朝から行われました。芝居や映画などの余興も催され、多くの参詣者で賑わいました。戦時中、昭和18年(1943)に鉦を供出し昭和24年(1949)に鉦2枚を鋳して戦後再び行われるようになりました。また昭和56年(1981)にも鉦を2枚鋳造しています。昭和59年(1984)に大光寺双盤念仏保存会が結成され、昭和62年度には飯能市指定無形民俗文化財に指定されています。

 川寺の双盤念仏の流派は「あさくさりゅうおくやまりゅ」といわれ、太鼓が主導で念仏をリードしていくといいます。鉦2枚太鼓1張の3人で行います。習得にはまず鉦から習い始めます。念仏の唱えを「モウスコト」といい、四遍、続いて五遍を習います。四遍は穏やかに、五遍は一段と力強く唱えます。次は道具(鉦)にかかり、鉦の打ち方を習いつつ、掛け念仏、玉入れ、竜頭などを覚えます。鉦を覚えるとその中の数人が太鼓を習得したといいます。

 双盤念仏の順序は、本流し、サソウ、歌念仏があります。通常の縁日では本流しが行われます。「十三鉦―四遍―五遍―掛け念仏―せめ込み―七五三の玉入れ―大山越し―竜頭―小山越し―天地の玉―十三鉦」の順序で進みます。川寺では落合と違い、四遍、五遍は鉦、太鼓ともに唱えます。サソウは僧侶が護摩を焚く前に行う儀礼的な念仏で、めったにやるものではないといわれています。「十三鉦―四遍―切回向―五遍―サソウ―せめ込み」、このあとは本流しと同様です。歌念仏は四遍と五遍の間に、鉦、太鼓が歌を入れる余興的なものでした。入れる歌は流行歌や民謡など、どのような歌でもよいといわれます。

 伝承の中心メンバーであり、落合の念仏復興の際に太鼓の打ち方を指導したもろおかひょうさくが高齢となり、念仏のできる人も数人になってきています。早期の復活が望まれます。

矢颪の双盤念仏


矢颪の毘沙門様として有名な浄心寺

 矢颪の毘沙門様として有名な浄心寺では、戦前まで境内の薬師堂で双盤念仏が行われていました。構成は鉦2枚太鼓1張の三人一組で、ダンギと呼ばれていました。薬師堂は茅葺で八畳一間ほどの堂で、縁日に念仏が行われたようです。現在は新しく建て替えられています。浄心寺を取り囲む丘陵の上の広場で、念仏を行ったともいわれます。浄心寺でも戦時中に鉦2枚を供出して以後絶えてしまいました。寺の記録によると昭和17年(1942)12月13日什具供出の項目があり、鉦はその頃に供出されたものでしょう。明治26年(1893)生まれの木村萬造が念仏の最後の名人といわれています。鉦の枠台2つと太鼓は現存しています。枠台の一つは本堂前に置かれ、新しい双盤が懸けられ、参拝者が打ち鳴らすようになっています。もう一つは新しい薬師堂に置かれ平太鼓の台に転用されています。太鼓は現在毘沙門堂の太鼓として使用され、(太鼓直径51.5㎝)太鼓の台は現在観音堂内にあります。(台高75㎝)

鉦と鉦の枠台

平松の双盤念仏

 円泉寺住職諸井政昭によると土地の古老から平松に双盤念仏があったと聞いたことはあるといいます。数年前物置を片付けたときに、鉦の枠台が2台発見され、円泉寺で保管されています。欅製で両方に「精明村大字平松圓泉寺檀中」の墨書銘があります。(台高70㎝)

鉦の枠台

広瀬の双盤念仏(狭山市)

 狭山市上広瀬の禅龍寺(曹洞宗)の境内にある観音堂で、時期は不明ですが16日の縁日の夜に双盤念仏が行われ、行事をダギまたはダンギ(談議)と呼んでいました。大正10年頃までは行われていましたが、それ以降途絶えてしまいました。練習は本堂で行い、上、下広瀬の住民が伝承していたようです。談議が盛んな時は観音堂に大きな提灯を吊るしました。談義のはやる年は景気がよく、ホック(俳句)のはやる年は不景気であるという言い伝えが残っています。禅龍寺に鉦1枚と太鼓が現存しています。

鉦の銘文「奉納観世音 天保四癸未歳(1833)三月吉日 武州高麗郡廣瀬村万寿山禅龍寺什物」鉦の内部「諸井寅次郎 山影仁右衛門 中村平八 竹内弥助 野邑勘次郎 高橋新平 松村宇八 岸弥七 山崎源蔵 古谷五平次 岸弥右衛門 江原勇蔵 河井長蔵 飯島音吉 岸伊左衛門 廣岡半平」(直径39.5㎝)

笹井の双盤念仏(狭山市)

 狭山市笹井の薬師堂の4月12日・10月12日に春・秋の祭礼が行われていました。その際に鉦2枚、太鼓1張の3人一組の双盤念仏が行われていた。双盤念仏の行事のことをダギ・ダンギと呼んでいました。

 明治35年頃に生まれた数名が、大正初期に念仏を習いましたがそれ以降は伝承されず、昭和初期頃から行われなくなったようです。鉦の音がもれないように土蔵の中で練習したといわれています。

 鉦は戦争中に供出されたと思われ、現存しません。薬師堂は昭和30年代に解体され、現在場所を移して祀られています。薬師堂文書の「大正六年四月十三日 薬師祭典出納簿 八木組の中に「念仏連」の記載があります。当時の太鼓は現存し、その銘文には「奉献 大正六年四月十弐日 東京市浅草亀岡町太鼓製造所南武五郎右衛門」と記されています。

 平成12年(2000)に小峰孝男等数名により復活、平成14年(2002)には地元有志の寄付を募り、鉦2枚と太鼓1張を新調し、現在宗源寺の花祭り(毎年4月8日)、笹井観音堂祭礼(毎年1月20日)に双盤念仏の奉納を行っています。なお小峰は飯能市落合の双盤念仏や同市川崎の双盤念仏の伝承者であった関谷弁治氏(大正3年生)、小野田英一氏(明治42年生)に指導を受け伝承しています。

野田の双盤念仏(入間市)

 野田の長徳寺の境内に祀られている薬師堂で双盤念仏が行われていました。詳細については明らかでありませんが、現在飯能市落合の鉦の枠台2台は長徳寺から寄贈されたもので、1台には「慈眼山長徳禅寺十二世代什具」もう1台には「瑠璃山什物吉祥院良章代」の墨書銘があります。

双柳の双盤念仏

 秀常寺観音堂で双盤念仏が行われていたようです。地元の島田欽一氏が古老から聞いた話によると若者が八王子(大善寺か)に行った際お互いに張り合うケンカ念仏をして、負けてそのまま道具をそのまま置いて帰ってきたので、それ以降絶えてしまったという。

川崎の双盤念仏

 川崎の双盤念仏は普門寺の境内西側にある観音堂の縁日と御開帳や談議の際に行われてきました。この観音堂は山口観音(所沢市)の旧本堂を貰い受け再建したものと伝えられる七間四面の立派な建造物です。観音堂の記録によると、明和6年(1769)の建立で、明治11年(1878)再建。昭和24年(1949)に茅葺きを瓦葺きに改修がなされました。観音堂は村持ち、すなわち川崎の住民が管理をしてきました。古くは28戸ほどの村でした。

 観音様の縁日は毎月16日ですが、特に1月・3月・8月・10月が賑やかでした。双盤念仏が行われ念仏を習うのは主に川崎の住民でしたが、下川崎、芦苅場の人も加入していました。しかし太鼓を打つのは川崎の住民に限ったといいます。また隣村の平松の双盤念仏は川崎から伝授したものです。

 双盤念仏の流派は浅草流あさくさりゅうといわれます。川崎の小野田半平が浅草から念仏の師匠を招き、直接教わったので浅草流の中抜なかぬき流というのだそうで、その時に念仏の免許状「念佛目録巻」(小野田英男所蔵)を得たといいます。念仏をすべてマスターするとこの写しが授けられたそうです。内容は浅草寺の念仏堂と本所回向院で談議僧を務めた滝川龍山和尚の十日十夜の法要の、特に双盤の作法について記述がなされ、明治元年(1868)一月吉祥日と記されています。

念佛目録巻

 双盤念仏の基本構成は鉦2枚太鼓1張の三人一組した。他所から鉦を借りて4枚で行う時もありました。談議の場合にはさらに鉦を増やしますが、鉦は偶数枚で揃えたといいます。鉦は戦争中2枚を供出し、昭和24年(1949)に再鋳しています。

 12年に一度の午年4月には御開帳があり、その際には談議が行われました。昭和5年(1930)の御開帳には談議僧を梅園村(現越生町)の寺の住職が談議僧を務めてもらい、他所から鉦を借り集め12枚あがった(揃えた)そうです。鉦は縁台に乗せて観音堂の回廊に並べ、長襦袢を着て襷を掛けて鉦を打ったそうです。またそれぞれ色の付いた傘やランプを頭上に釣り下げ、夜でも顔が明るくなるよう工夫しました。

双盤念仏は「ひら念仏ねんぶつ」と「初夜しょや」、「うた念仏ねんぶつ」の3つが伝承されていました。平念仏の流れは十三鉦―四遍―五遍―掛け念仏―せめ込み―七五三の玉入れ―山越し―竜頭―小山越し―ヒトツブチ―十三鉦です。初夜の流れは十三鉦―四遍―切回向―五遍―サソウ―コザソウ―せめ込み―三三九の玉入れ―山越し―竜頭―小山越し―ヒトツブチ―十三鉦です。歌念仏は平念仏に地蔵和讃を織り込んだもののようです。普段の縁日では主に平念仏が行われた。初夜は談議の際に行ない、四遍・五遍を全員が順番に唱えるので、一通りにとても時間がかかったといわれています。

 現在川崎の双盤念仏を伝承しようと地域の人が集まり、月1回普門寺の本堂で練習を重ねて、1月の観音堂の初護摩に双盤念仏を奉納しています。
※鉦の銘文「昭和二十四年三月 施主総檀家一同現住建部良全 千手山教学院普門寺観音堂改修記念東京五雲堂謹製」直径33㎝ 2枚とも同銘文、太鼓直径50㎝

川崎の双盤念仏の

台(日高市)の双盤念仏

 日高市台の円福寺の本堂(阿弥陀堂)に向き合うように、丸太を結わえて舞台をかけ、そこに鉦4枚と太鼓を並べ、念仏をしました。この行事を大念仏とか談議と呼んでいました。毎年3月28・29日の両日に行われ、「○○さん先祖供養のため」ということで、お金を包んでもってくる人もいました。また堂内では百万遍の数珠回しも行われ、興に乗って踊り出す人もいたといいます。行事の前になると円福寺で毎晩念仏の練習がありました。昭和8年(1933)に川崎の双盤念仏が台に来て念仏を行ったそうです。昭和10年頃まで続きましたが、その後絶えてしまいました。念仏の太鼓は現在滝不動で使用されています。