能周辺の双盤念仏の概要


双盤念仏とは

 双盤念仏とは、双盤と呼ばれる鉦を枠台につるし、打ち鳴らしながら、曲節の付いた念仏を唱えるもので、もともとは、浄土宗特有の僧侶の唱える「引声いんぜい念仏ねんぶつ」から派生したものといわれます。引声念仏は、「南無阿弥陀仏」に長くのばす曲調をつけた念仏です。その起源は慈覚大師円仁が、中国五台山から請来して比叡山常行堂に伝へ、それが京都真如堂に十夜法要を伴ったかたちで、関東では室町時代に京都から伝えられた鎌倉光明寺のものが有名です

 引声念仏を唱える法要のなかで、双盤が用いられるようになったのは、江戸期になってからです。江戸後期になると、江戸市中の特に浄土宗、天台宗の寺院では十夜法要が盛んに行われるようになります。芝増上寺(港区)、浅草寺奥山念仏堂(台東区)、九品仏浄真寺(世田谷区)、目黒祐天寺(目黒区)、八王子大善寺(八王子市)などが有名です。それぞれの寺で法要の法式が定められ、双盤の作法の一部を在家の講中が受け持つようになっていきました。これを「ヤクガネ(役鉦・厄鉦)」といいます。大勢の参詣人が詰めかける堂内で、ヤクガネを務めることは民間の講中にしてみても、誇らしいことだったのでしょう。十夜法要は寺院の年中行事ですが、講を組織してそれを経済的に支えていたのは、江戸の町人達でした。そのような民間の力を取り込むことで、法要を盛大かつ華美に行う寺側の志向もあったと考えられます。それがさらに発展して双盤に太鼓が加わり、娯楽性を持つ芸能に形作られたと考えられます。そして文化文政期から幕末にかけて、埼玉県西部や東京都内に宗派をこえて流行していったのです。

飯能市を取り巻く双盤念仏

 飯能市の南側にあたる東京都の多摩地域から埼玉県狭山丘陵沿いにかけては、双盤念仏の分布が確認されています。鉦4と太鼓1の構成で、双盤念仏を「カネハリ」と呼ぶことが多く、八王子大善寺系統の流れを汲むものが多いと考えられます。また飯能市の南東方面青梅市周辺でも市街地や成木、小曾木方面でかつては双盤念仏が伝承されていました。「念仏講 昔おじゅうやに鉦、太鼓をたたいて男が念仏をやった。」(『青梅の民俗』旧成木村の項p171)また青梅市小曾木の市川庄右衛門が安政6年(1859)から明治30年までのおよそ38年間にわたって書き記した日記には、村内や近隣地域の年中行事や信仰芸能等の記述があります。双盤念仏についても文久3年(1863)8月に若者が双盤念仏を習いはじめたという項があります(『青梅市史資料集第46号』)。また明治3年(1870)閏10月14日から3日間、「直竹の長光寺にて三日三夜の念仏説法あり」との記録があります。成木谷筋の双盤念仏については、青梅市方面との関係が考えられます。同じく南高麗地域の苅生かろうにも双盤念仏があったといわれていますが、今回確認はできませんでした。名栗谷筋の原市場や小瀬戸にも双盤念仏の伝承があったようです。そのあたりは今後の調査に待ちたいと思います。吾野谷筋でも確認がありません。いずれにしても飯能市より北方では日高市台以外に双盤の伝承は現在確認できず、狭山市より東側にも伝承がないのが現状です。

飯能市周辺の双盤念仏の特徴

 神奈川県、東京都の双盤念仏の多くは鉦4に太鼓1の4枚鉦の構成です。しかし飯能地域の双盤念仏は、太鼓1に鉦2の2枚鉦が基本構成で、大きな特徴としてあげられます。落合の双盤念仏は4枚鉦ですが、現在の奏法は2枚鉦のものの延長線にあるといえます。4枚鉦の場合、鉦(親鉦・一番鉦)が主導していくのに対し、2枚鉦は太鼓が主導していくのも奏法の特徴です。多摩地域入間地域の4枚鉦の双盤念仏の伝承地では、双盤念仏のことを「カネハリ」と呼ぶところが多いのですが、飯能周辺ではそのようには呼称しません。このことは鉦の構成や奏法の違いに由来すると考えられます。

 飯能市周辺では次の地域で双盤念仏の事例が確認されています。落合(現行)、川寺(休止中)、矢颪(旧行)、平松(旧行)、川崎(復活途上)、双柳(旧行)、入間市野田(旧行)、狭山市笹井(現行)、狭山市広瀬(旧行)、日高市台(旧行)などです。おそらくこれ以外にも現在確認できない多くの地域で双盤念仏が行われていたのでしょう。2枚鉦の地域は入間川左岸流域の入間市野田や狭山市笹井、広瀬まで広がっていました。入間市新久の双盤念仏についても鉦を戦争で供出するまでは2枚であったとの伝承もあるので元は2枚鉦であったかもしれません。また落合と日高市台は4枚鉦の奏法だった可能性も残ります。
 飯能市周辺の2枚鉦構成の双盤念仏はどのように成立したのでしょう。

飯能市周辺の双盤念仏の成立

 飯能周辺の双盤念仏は浅草流(アサクサ流・センソウ流ともいう)といわれます。川崎の小野田英男家には「念仏ねんぶつ目録巻もくろくのまき」という一巻の伝書が残されています。それは浅草金龍山浅草寺念仏堂と深川回向院で談義僧を務めた瀧川龍山大和尚が十日十夜の法要の際の鉦の打ち方について記し、川崎村の小野田半平正勝に授けたものです。明治元年(1868)1月の年号がありますが、明治元年は改元が9月なので後年になって書き記したものでしょう。浅草寺裏の奥山にあった念仏堂では江戸時代に盛んに十夜法要が行われましたが、今回その実態については、浅草寺の資料調査を試みましたがそれについて、明らかにすることはできませんでした。後日に期したいと思います。

 川崎の観音堂の建立が明和6年(1769)、川崎では供出する前の鉦は安永2年(1773)の銘文と伝えられるので、「念仏目録巻」の書写より以前に、かなり古い段階で双盤念仏が取り入れられたのかもしれません。2枚鉦構成の双盤念仏が4枚鉦構成より先行していたとすれば、他では絶えてしまったものの、それが結果として飯能に残ったという推論も成立するかもしれません。

 いずれにしても、川崎に取り入れられた2枚鉦構成の双盤念仏が飯能周辺に広まっていったと考えてよいと思います。

飯能市周辺の双盤念仏の曲構成

 飯能中心の双盤念仏の曲は次の三種類だったようです。
①本流し、平念仏とよばれるもの(縁日祭礼などで頻繁に行われる)
②サソウ、初夜と呼ばれるもの(談義などの催しの際に特別の時に行われる)
③歌念仏(余興的なもの)

談義の流行

 東京都多摩地域から入間郡西部地域にかけては、浄土宗寺院は割と少ない土地柄です。そのなかでも八王子大善寺は浄土宗の古刹で十夜法要も非常に賑やかでした。その際に行われる各地の双盤念仏連中が集まっての競演には、飯能からも「八王子のオジュウヤにはこぞって出かけた」という話を聞きます。所沢の山口観音へも出かけたようです。

 飯能周辺では地域に祀られるお堂の縁日や祭礼などで、双盤念仏が行われます。明治大正期までは談義の催しが盛んで、その際に双盤念仏が賑やかに行われました。談義とは僧侶の説法の意味で、十夜法要の行事ですが、飯能周辺では季節を問わずに仏閣の落慶式や入仏供養や開帳の際の余興として行われました。この辺で双盤念仏のことを談義念仏とも呼ぶのもその為です。談義には談義僧を呼びますが、ここでは必ずしも浄土宗の僧侶でなくてもよかったようです。談義は催しの日数、鉦の数等によっていろいろですが、規模の大きいものは三日三晩行われます。鉦も12~16枚位並べ、大勢で打ちます。一番規模が小さいのが1日で終了する一夜談義です。明治から大正にかけて原町の広渡寺でとても大きな談義が催されたとか、各地で盛んに行われましたが昭和に入って双盤念仏が衰退するとともに行事が絶えてしまいました。

 談義には各地の連中が集まり、鉦や太鼓を打ち、その行事は夜を徹して続きました。そのような都市的な交流関係を持ちながら双盤念仏は伝承されてきたのです。